Yoko Kobayashi

Yoko Kobayashi

神奈川県藤沢市出身。国際基督教大学教養学部卒業後、ロイター・ジャパン(現・トムソン・ロイター・ジャパン)に入社。日本での経済記者、ニュージーランド支局特派員を経て、2年後にロイターのフィリピン副支局長に就任。ロイター退社後、カナダのトロント大学、ロットマン経営大学院でMBAを取得。2007年より国際NGOワールドビジョン・カナダで緊急援助・開発プログラムの広報担当として従事し、2010年の11月から世界銀行の対外関係総局メディアチームの一員として着任し、現在に至る。

第32回インタビュー 2011年4月26日

小林陽子上席広報官

世界銀行 対外関係総局 メディアチーム

モノトーンの爽やかな装いで現れた小林さん。日本からニュージーランド、フィリピン、オーストリア、カナダ、ワシントンDCと、世界をまたにかけたキャリアチェンジには目を見張るばかりだ。本人は「私の人生には消去法が多くて」と謙遜するが、常に自分のやりたいことを見つめ、不屈の精神で新しいことにチャレンジする彼女の姿勢には見習うべき点が多々あるだろう。記者から主婦を経て世銀の広報担当になった彼女に、今までの道のりを語ってもらった。

英語力が与えてくれた将来への展望

父の仕事の関係で、8歳から14歳までアメリカのアイオワ州にいたんです。それも、町の端から端まで自転車で20分ぐらいというけっこうな田舎。日本人は町に3家族しかいなくて、しかも子どもがいる家庭は私たちのところだけでした。中学3年のとき日本に戻ってきてすぐ受験ということもあって、帰国子女枠がある国際基督教大学高等学校(ICU高校)を受けてそこに進学しました。実家から高校までかなり距離があったので寮に入ることになったんですが、同じぐらいの年ごろの女子学生たちとの共同生活には、思った以上にカルチャーショックを受けましたね。まったくの他人と暮らすって気を使うものなのだと思いましたし、実家のありがたみを実感しました。

アメリカにいた時にブラスバンドでフルートをやっていたので、高校でもオーケストラに入ってフルートを続けていました。帰国子女が全体の3分の2を占めるという特殊な環境だったこともあって、英語については能力別にクラス分けがあり、英語でエッセイを書いたりシェイクスピアを原文で読んだりと、欧米の学校と同様の授業を受けることができました。こういった学習環境は自分にとっては非常にラッキーでした。英語に対する自信につながりましたし、「将来は英語を使って何かできればいいな」と思い始めたのもこの頃からだったと思います。

交換留学で様々なものを得た大学時代

大学は、そのまま推薦枠で国際基督教(ICU)大学へ。社会言語学専攻だったんですが、きっかけはこの学問への興味というよりも、この人のもとで学びたいと思える教授との出会いでした。クラブ活動は高校と同様にオーケストラに入ってオーボエをやっていたんですが、毎年春と夏に行うチャペルの前でのコンサートが印象に残っています。自分は小さなパートに過ぎないけれど、「皆で力を合わせれば、こんなに素晴らしい音が出るんだ!」と感動しました。誰かが突出しても怠けてもダメで、皆で協調して作り上げるあの一体感は忘れられないですね。

在学中に1年間、テネシー大学に交換留学しました。どうしても留学したくて、「ICUには頑張って家から通うから、下宿代は要らないから留学させて!」と親を説得しました。テネシー大学で学んだのはジャーナリズム。授業の一環で記事を書いて地元の新聞紙に投稿したことがあったんですが、掲載されて25ドルの小切手が送られてきたときは、本当に嬉しかったですね。学校新聞にも記事を書いて、英語でものを書くことの面白さに目覚め、これを自分の仕事にしたいという手応えを感じて留学から帰ってきました。Yoko Kobayashi小さいころに紙粘土でピラミッドを作ったことがあるぐらい、インカやマヤ文明に興味があったこともあり、アメリカからメキシコに旅行もしました。そこで先進国にはない人々の生きることへの力に心を打たれ、発展途上国への興味も芽生えていました。

教授がフィリピン政府による研究活動に携わっていたこともあって、卒論のテーマは「フィリピンにおける言語政策」。卒業旅行の一環として、ウィクリフという団体が主催するフィリピンでのスタディツアーに参加しました。タイ、マレーシア、シンガポールまで友達と旅して、それからスタディーツアーに参加するためにフィリピンを訪問したんですが、初めての東南アジアでの体験は何もかもが新鮮で、驚きと学びに満ちた数週間でしたね。

ロイターでの記者生活

就職活動が始まり、日本の新聞社のセミナーを受けたりもしたんですが、英語が生かせるのかという疑問もあって途中で受けるのを止めました。色々と調べていくうちにロイターにICUの卒業生がいることを知り、まずその方に話を聞いたところ、実は他にも外国の通信社はいろいろとあることを教えていただきました。ただ新卒を採用している会社は少なかったので、自分でアポイントを取って話を聞かせてもらう、いわゆるインフォメーションミーティングを独自にしていました。自分が興味がある心理学や社会学、そして開発をどう仕事に結びつけられるのかについて考え、日本赤十字などを受けたりもしたんです。

最終的にはロイターに入社することになり、東京で日本語で取材をし、英語で記事を書くといった仕事をしていました。ロイターは経済が強いので、主に経済の記事が多かったですね。ただ外国に出たいという気持ちがどんどん強くなり、空いているポストに応募して最初はニュージーランドに。一度は途上国で仕事をしながら暮らしてみたいという思いを実現するため、その次はフィリピンに飛びました。やはり、実際にフィリピンに住んでみると、それまでは見えなかった色々なことが見えてきましたね。貧富の差に最初は驚きましたし、インフラ、システムなどがうまく機能せず、思い通りに事が進まないことなんて日常茶飯事でした。でも、例えばアパートの部屋に洗濯機をいれてほしいと頼んだら、平気で壁に穴をあけてパイプを通すなど、思いもよらないような形でフィリピンの人たちは解決策を見つけてくれたりもしました。うまくいかないことがあってもなんとかなると、物事をポジティブにとらえることができるようになりました。嫌な経験もしたけれど、思い入れもありますし、私にとっては愛すべき国ですね。フィリピン人の主人とも、この時に出会って2年後に結婚しました。

ウィーンでの主婦時代、そしてカナダの大学院へ

Yoko Kobayashiもともと自分がジャーナリズムでやりたかったのは弱い人の声を汲み上げて報道すること。それなのに、今まで自分が書いていきたことは、お金儲けに関する記事ばかりではないのか…そんな疑問をふと持つことがあり、記者以外の仕事にもチャレンジしてみたらどうか、などの思いもあり、結婚を機にロイターを辞めて主人が住んでいたオーストリアのウィーンに移りました。しばらくはドイツ語を勉強しながら主婦をしていたんですが、2年が経つころ、やっぱり専業主婦は性に合わない、自分は仕事を通して社会と関わっていたいという思いが強くなり、復職のきっかけとして大学院に行こうと思ったんです。当時興味があったのは心理学だったんですが、仕事に結びつく学位は何だろうと考えたときに、ビジネス出身の主人がMBAを勧めてくれて、不安はありましたがMBAをとろうと決心しました。

当初はウィーンに住んでいるということもあって、オンラインで受験勉強をはじめ、イギリスやアメリカの通信教育で学ぼうと考えていたんです。ただ、GMATというのは5校まで無料で成績を送ってくれるので、宝くじのような気分で普通の学校にも送ってみようと思ったんですよね。当時、主人が自営業を始めたいという希望もあって、他の国に住もうかという話も出ていたので、カナダの大学にも出してみたら、見事に合格!まず私が先にカナダに行って、1年後に主人が移って来ました。大学院の1学期が終わった時点で永住権が取れたので、そのまま卒業して就職もしたんです。

カナダで就職活動をして気付いたのは、ある程度年齢に達すると、勉強したことよりも仕事での経験の方が重く受けとめられるということ。2年間大学院でマーケティングを学んできたけれど、マーケティングで受けた会社は面接にもこぎつけられないことが多かったですね。カナダでは社会経験が重視される傾向があって、一緒に大学院にいた中国人やインド人はカナダへ移住してきた人たちだったのですが、皆自国ではすごいことをやってきた人たちなのに仕事がないといった状況でした。かといってジャーナリズムには戻りたくないと考えていたある時に、広報はどうかしら、と思いついたんです。元々メディアにいたから対応も理解できるし、大学院でビジネスの勉強もしたし、というわけで広報に絞って就職活動をし、ワールドビジョンというNGOに就職することができました。

ワールドビジョンでは、広報戦略やプランを作成したり、メッセージやレポートなど、他の人が書いたものを手直ししたりといった仕事が多く、書く機会が減ったことが少し寂しかったですね。ただ、それまでの記者生活では自転車操業のような毎日で、先のことは全く考えられないような生活でしたから、今の世の中がどうなっていて、そこにどうやって食い込めば自分たちの主張が聞いてもらえるのかについて考えることは、また違った面白さがありました。ただ、ワールドビジョン・カナダがカバーするのはカナダのみで、メディア対応といっても数社中心。もっと幅広い活動をしたいという思いがだんだんと強くなっていたある日、世界銀行の募集をウェブで見つけて、応募をしてみたんです。

世銀広報部での仕事内容

それまでに他の国際機関にも応募はしていて、だいたい6、7ヶ月ぐらい後に返事が来ることが多かったんですが、世銀は比較的すぐに連絡があって、電話面接の後、ワシントンDCで面接といった流れでした。

現在の仕事内容としては、広報ということで新聞、テレビ、ラジオなどの報道対応が中心ですね。取材依頼に対応するのはもちろん、世銀から何かを発信する際にはどんなメッセージでどの媒体が最適なのかなど広報戦略を検討することもあります。着任してからまだ5ヶ月しかたっていないのですが、感じたのは色々な地域の声を世銀全体の声として発信するため、世銀内部での調整も大切な仕事の一環だということです。

具体例でいうと、今年の1月にゼーリック総裁がインドを訪問した際には、私はプレスリリースを報道各社に送ってウェブに掲載したり、報道ぶりをまとめて総裁に報告するなどという側面支援を世銀本部の広報チームと共に担当しました。総裁に同行する広報担当者はまた別の者で、報道関係の日程調整ややりとりは南アジア地域総局の広報チームとインドのカントリー・オフィスの広報の人々が担当しました。このように、ひとつのイベントに、さまざまな広報チームが関わっているので、調整がとても大切になるわけです。

また私が日本人ということもあって、特に日本メディアには力を入れています。具体的にはワシントンDCに駐在している報道各社への挨拶回りから始まって、各社が世銀にどういうイメージを持っているかを把握したり、日本語のプレスリリースを送ることもします。Yoko Kobayashiこの部署にはずっと日本人スタッフがいなかったようなので、私が担当窓口となることで、情報の交通整理をしたり、日本の報道各社といい関係を築いていければと思っています。

色々なカルチャーやバックグラウンドを持つ人と働くことが好きなので、国際的な場所でこれからもずっと働き続けていたいですね。自分の一生の時間を見つめると、どうしても仕事に費やす時間が多くなるので、できるだけ世の中が少しでもよくなるような仕事、人の役に立つような仕事ができればいいと思っています。これまでの自分自身の道のりを振り返って思うことは、今13ヶ月になる息子がいるんですが、子供ってこんなに可愛いならもう少し早く産んでおけばよかったということと、MBAあるいは何らかの修士を20代にとっておけば、もう少し可能性が広がったかもしれないということでしょうか。

グローバルをローカルに変える重要性

若い人に伝えたいのは、グローバルな問題を身近にすることが大事ということ。飢餓や環境問題など遠い世界のことのように感じるかもしれませんが、日本にいても募金活動やスタディツアーに参加するなどできることは必ずあります。勉強して知識をつけることはもちろん大事だけれど、興味を持ったことに関しては一歩踏み出してほしい。何か行動することで責任をとる必要も出てくるし、その事柄が身近に感じられるはずです。

それから、これは自分自身が気をつけていることなんですけれど、常に自分をブラッシュアップすること。これでいいと思わないこと。物事はやってみないとできるかどうかわからない。新しいことや興味があることに、なるべく恐れずにチャレンジしてもらいたいですね。

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