Shiho Nagaki

Shiho Nagaki

愛知県名古屋市出身。青山学院大学仏文科卒。在学中ブザンソン大学に交換留学。三井住友銀行に2年勤務した後、パリ政治学院に留学、開発経済学修士号取得。大学院在学中、経済協力開発機構・開発援助委員会(OECD/DAC)にてインターン。その後、外務省経済協力局にてアフリカ仏語圏開発援助、国際協力機構(JICA)にてアフリカ大湖地域(コンゴ民主共和国、ブルンジ、ルワンダ)の復興開発・平和構築支援を担当。JICAコンゴ民主共和国事務所でプログラム総括としての勤務を経て、2009年より、世界銀行アフリカ地域総局貧困削減・経済管理局(PREM)、コンゴ民主共和国マクロ経済チームにて、マクロ経済分析、債務削減プロセス、財政支援、地域経済統合、ガバナンス(公務員改革)支援を担当。ワシントンDC在住ながら、年間の半分以上をコンゴ民主共和国首都キンシャサにて過ごす日々。

第20回インタビュー 2010年8月17日

長木志帆エコノミスト

世界銀行 アフリカ地域総局 貧困削減・経済管理局 コンゴ民主共和国マクロ経済チーム

政情が不安定で、治安もいいとはいえない任地でのプロジェクトや現地での交通事故など、聞いているこちらがハラハラしてしまうような体験の数々を笑顔で話してくれた長木さん。少女のような声で語られる言葉の端々ににじみ出る、精神力の強さが印象的なインタビューとなった。「もともとはまったく社交的ではなかった」という彼女が、ネットワークを広げてキャリアをつかんだそのプロセスについて語ってもらった。

アフリカに興味を持ったのは高校時代

父の仕事の関係で東京に引越して、それからずっと東京ですが、生まれは名古屋なんですよ。小さい頃は田舎で日に焼けて真っ黒になって遊んでいました。高校に入ってからは、テニスばかり。3年生になって、「さすがにそろそろ勉強しなくちゃ」と思っていた頃、報道でルワンダの大虐殺を知ったんです。数ヶ月間に100万もの人々が虐殺された事実に大きなショックを受け、本屋さんで大枚をはたいてアフリカの専門書を買いました。開発に興味を持ったり、国際機関で仕事をしてみたいと思い始めたのは、今思えばこのことがきっかけだったのだと思います。昨年ワシントンDCに引っ越す際、この本の間から、1994年のルワンダの虐殺、コンゴ民主共和国東部での難民大量発生に関する当時の新聞の切抜きが大量に出てきて、自分の原点はここにあると改めて実感しました。

大学では、「国際機関に進むためには語学をきちんとやらないと」という思いからフランス語を専攻しました。もともとは英語が好きだったんですが、英語をやっている人はいっぱいいるし、それだけではきっと駄目だろうなと思って。今になってみて、自分が仕事をしてきた西アフリカや中央アフリカの国々の公用語はフランス語だったので、その選択がすごく役立っていますね。語学は身を助ける、というのが自分のキャリアの中での実感です。

一般企業に就職後、フランスのグランゼコールへ

Shiho Nagakiフランスに留学したのは、大学3年のとき。フランス語だけではなく、フランスの歴史や政治、それからちょうどEUの経済統合が進んでいた時期でもあったので、欧州連合(European Union:EU)の政治経済についても勉強しました。開発について関心はあったんですが、大学のときは開発について勉強していたわけではなく、将来そういった仕事につくことも含めて、意識はしつつも模索していた感じでしたね。

もともと大学院に行きたいという気持ちはあったのですが、新卒で就職するという機会は一度しかないですし、「日本の社会を経験しておくのも大事なこと」と思い、日本の都市銀行に就職し、2年間外国為替売買の仕事をしていました。世界情勢が金融や為替に与える影響を肌で感じられる興味深い日々でしたが、やはりもともとの目標に戻るべし、と感じ2年で退職し、フランスの大学院に留学しました。

フランスのシステムは少し変わっていて、高等教育機関は「大学」と「グランゼコール(幹部養成校)」に分かれているんです。私はこのグランゼコールに属するパリ政治学院に入ったのですが、官界、財政界、産業界などの色々な組織の幹部育成を目的としていて、第一線ですぐにこなせる人材を養成することが主眼です。学問的な授業も面白かったけれど、スピーチや交渉など、実務をみっちり叩き込まれたことが、その後の仕事でも大変役に立ちました。卒業にも、論文を書くよりもインターンを経験することが重視されましたね。この学校では、開発分野で非常に先駆的な部分があり、特にアフリカ開発で活躍する実務者や研究者とのネットワークも充実していますし、フランスでも有数の研究機関をもっています。フランス語もスキルアップできますし、アフリカで開発の仕事をしたい人には最適な学校ではないでしょうか。もちろん、すごく厳しい学校で私も2年苦しみましたが、あの日々を乗り越えてこそ今があると思えます。

外務省での初めての「開発の仕事」

その学校にいる間に経済協力開発機構(OECD)でインターンをして、開発経済で仕事をしていきたいと強く思ったんです。それで、日本に帰ったときに外務省のアフリカの政府開発援助(ODA)を扱っている部署の募集を見つけて応募し、そこで働くことになりました。

ちょうどその頃、1990年代の紛争時期を越え、復興・開発にシフトし始める国がアフリカに多く出てくる中、世界的にもアフリカ開発に注目が集まっていました。アジア諸国でODA卒業国が徐々に出てきている中、日本もアフリカに対する支援を増大させている時期だったので、仕事は非常にやりがいがありましたね。外交の最前線でアフリカ各国やドナー関係者とコミュニケーションをとりながらアフリカ支援に対する政策対話を進めていく過程で、実践を多く積んでいきました。具体的には、東京の外務省で、担当していた中部・西部アフリカ諸国に対する国別・地域別援助計画を策定したり、アフリカ各国首脳を集めアフリカ開発についての政策的議論を行う東京アフリカ開発会議(TICAD)プロセスや、当時アフリカ開発が頻繁に主要議題となっていたG8サミットなどをフォローしていました。その合間を縫って、日本が具体的にどんな支援をしていくかを相手国政府と協議しに、シエラレオネやガーナ、ブルンジなどアフリカ各国に出張していましたが、ハイレベル政策対話を何度もこなし、コミュニケーションスキルはすごくアップしたと思います。

仕事はすごく面白くて、上司や周りの人間関係にもとても恵まれていたのですが、政策を打ち出すような立場にいるのに「自分には決定的に現場経験が欠けている」という思いがどこかで常にあったんです。日本からの出張を繰り返しているだけでは、クライアントが本当にどういうことを必要としているのかがわからない、と痛切に感じていた頃に、国際協力機構(JICA)からオファーをいただいて、有難く引き受けることにしました。

現地調査中に起こった交通事故

JICAでの担当は、今までの仕事でも関わりが深かったコンゴ民主共和国、ブルンジ、ルワンダなど、アフリカの大湖(たいこ)地域での復興開発と平和構築支援。最初の1年ちょっとは東京本部にいて、遠隔でオペレーションをしたり、出張で現地に出向き、これから日本がどのような支援ができるのか現地のニーズを調査し、案件形成をする仕事をしていました。ただ、この地域は紛争が終わってまだ日が浅く、特にコンゴ民主共和国は世界最大規模の国際平和維持部隊(PKO)が展開する不安定な状態。2007年から2008年にかけてのこの時期、暫定政権からの過渡期にあり、独立以来初の民主選挙の選挙結果を巡って、市中で銃撃戦が頻発していました。そんな合間を縫って現地調査に出かけていき、大変な交通事故にあったんです。実際一人の方がその事故で亡くなりましたし、私も頭部に外傷を受けて本当に死ぬかと思うぐらいの大事故でした。治療のために髪の毛を丸坊主にもさせられたんですよ。

そんな地に戻ることへの恐怖もありましたが、今でもとても尊敬している緒方貞子理事長から直接言葉をかけていただいて、非常に励まされました。そして「自分にできることがあって、それが求められていることであれば喜んでやるべきだろうな」と思い、その後アフリカ現地に飛んだんです。

現地でつかんだ「人と人とのつながり」

コンゴ民主共和国には2年半いたんですが、もう本当に大変でした。現地で電気も通っていない建物を所長と2人で見つけ、契約するところから始まって、インターネットを通し、椅子や机を買い…と、慣れない場所で自分たちで何でもやらなくてはいけないという状況で。でもそんな環境だったからこそ、すごく周囲に助けられましたね。Shiho Nagaki最初の3か月間は立ち上げに無我夢中でしたが、落ち着いてきた頃からは役割分担をして、自分はナンバー2としてドナー会合への代表出席や相手国政府とプログラム策定、政治・治安・社会経済状況分析などを担当していました。断続的にですが1991年以降、17~18年間ぐらい紛争が続いていて、あまりに不安定だったので、長期的な開発援助というものはまったく存在していなかったんです。ですから、ドナーもみなバラバラに各国が支援を考えるのではなく、ひとつの協調戦略を取ろう、ということで頻繁に会合が開かれていたんです。国際社会の一員として、何ができるかを一緒に考える席に日本代表という立場で参加するということは、非常に大きな経験でした。

現地では治安が悪くて気軽に出歩くこともできないので、職場と住居が同じ建物の中にあるという、究極の職住接近生活を送っていたんです(笑)。起きたら3階に上がって仕事をして、2階に下りてご飯を食べて寝るというような。そんな厳しい環境で仕事をしていたので、人と人のつながりは非常に強いものがありました。そこで得られたネットワークは、未だに宝物ですね。自分の私生活を犠牲にしてまで仕事することが求められているなかで、情熱を持って仕事をしている尊敬できる友人や同僚に多くめぐり合い、本当に大きな刺激を受けました。

ネットワークが可能にした世銀への入行

2年半現地にいて、現場でのドナーとのつきあいを通して各国の立場や見方もわかってくると、二国間援助とはまた違う立場から支援をするということも面白いんじゃないか、という思いが生まれてきました。実は、既にJICAでの次のポジションも決まっていて、東京に帰る予定だったんです。でも「まだ東京に帰りたくない」「もう少し前線で仕事をする立場でいたい」という気持ちでいた時に、ドナー会合で頻繁に顔を合わせていた世界銀行の方に「もう帰国しちゃうの?それなら世銀に来なさい」と誘っていただいて。コンゴ民主共和国は非常に複雑な政情、安定しない東部情勢、鉱物資源や世界第二位のコンゴ盆地を有する有数の天然資源国ながら、ガバナンスがひどく、経済が立ち行かない中、平和をより強固なものとするために復興開発の成果が急がれていました。世銀もオペレーションを拡大している時期ながら、現地の事情に精通したエコノミストが少ないという状況だったんですね。それならということで、お誘いに乗ることにしたんです。

現在のベースはワシントンDC本部ですが、出張が多くて6割くらいはコンゴ民主共和国にいます。今の仕事では、マクロ経済の分析をしたり、債務削減プロセスのフォローやガバナンス支援などを担当していますが、こうしたオペレーションを動かす際にも、今まで築いてきたネットワークが非常に役立っています。これまではずっと日本人に囲まれ、日本という国の立場を背負って「開発」への貢献を通じて国益に還元することが求められてきましたが、世銀では「開発」という究極の目標のために、色々な国の人たちと一緒にチームを組んで仕事をする、でもその中でもいかに個人として成果をあげなくてはいけないか、そのために組織内でも厳しい競争力にさらされ、日々自己研鑽が求められるという職・組織文化が今までの環境と一番大きく違う点ですね。

もうひとつ、世銀に入っての変化といえば、ワシントンDCで久しぶりの先進国の暮らしを楽しんでいるということでしょうか。ごく普通に散歩に行けること、ポストに郵便物が配達されていることなどに、いちいち喜んでいます(笑)。日々仕事が忙しいので、リフレッシュできるヨガやテニス、ウォーキングの時間は大切にしていますね。ずっと閉鎖的な環境にいたので、コンゴ民主共和国ではよく家に人を呼んで、しょっちゅうご飯を作ってパーティを開いていましが、やはり日本食はどこでも人気なので、みんな食べ物につられてすぐやってくる(笑)。この習慣は今でもネットワーキングのためにもとても大事にしています。おかげでお寿司なんかはかなり上手に作れるようになりました。

自分の「売り」を作る

高校や大学のときって、自分が何をやりたいのかをはっきりさせるのは難しいですよね。自分自身を振り返っても、その頃はやりたいことが漠然としていて明確ではありませんでした。でも、国際機関で働くためには、例えば私がアフリカに関心を持ってフランス語を勉強したように、ジェネラリストよりもスペシャリストであることが求められます。そのためには自分の売りがひとつでもふたつでもあることが重要。学生であるうちに、いかにスキルや語学を身につけるかが大事になってくるんじゃないでしょうか。

もうひとつ、若いうちからできることかなと思うのは、いろんな人と人間関係を作っていくということ。その関係を大事にするということは、自分の身を助けてくれるし、仕事の幅を広げてもくれます。開発のニーズはたくさんあるので、気概がある若い人たちにどんどん進出してきて欲しいですね。私も、今までは自分自身のことで精一杯でしたが、これからは少しずつ自分の体験を若い人々に向けて話したり、共有したりと、世の中に還元していくことを考えていきたいなと思っています。

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