Kazuhide Kuroda

Kazuhide Kuroda

東京都出身。ウォータールー大学科学部(カナダ)卒業。デルフト工科大(オランダ)、パリIV大学(フランス)留学を経て、マギル大学(カナダ)で経営学修士号(MBA)取得。カナダ在住中に国民軍を経験。国連競争試験(経済・IT各分野)に合格し、旧災害救援調整官事務所(現人道問題調整事務所: OCHA)勤務。アルメニア大地震支援調整、第一次湾岸戦争避難民救援、1994年にはルワンダ紛争人道支援、北朝鮮人道支援調整等に関わる。1998年に世界銀行入行。社会開発局紛争予防復興ユニット(Conflict Prevention and Reconstruction Unit: 改称前Post Conflict Unit)で上級社会開発専門家として勤務。カンボジア、アフガニスタン、東ティモール、イラク、リベリア、北カフカス紛争後地域・国復興支援、世銀紛争・開発、脆弱国家業務政策作成に関わり、国連、世銀連携強化に尽くす。現在は国別担当ユニット(エチオピア・スーダン・南スーダン)所属。趣味は海・山スポーツ、ボサノバ。

第38回インタビュー 2011年8月30日

黒田和秀 上級国別担当官

世界銀行 アフリカ地域総局 国別担当ユニット(エチオピア・スーダン・南スーダン)

スポーツマンらしいきびきびとした動きでインタビューに現れた黒田さん。登山からスノーボード、フルマラソンまでこなすというのも頷ける精悍な顔つきで、長く籍を置いた国連での仕事や世銀でのキャリア、またワークライフバランスについても語っていただいた。

様々な体験をした高校時代

中学のときに父親の仕事の関係で家族でカナダに引っ越しました。文化の面でも言葉の面でも慣れずに苦労しましたが、幸い、若かったので楽しみながら乗り越えることができました。中学・高校生の頃はスポーツや音楽、高校からはそれにアルバイトも加わって、とにかく毎日忙しく過ごしていました。当時はまだ特に将来開発の仕事をしたいというはっきりした気持ちはありませんでしたね。いろいろなアルバイトをやりましたけど、コンサートホールの案内人をしていたのは今でもいい思い出です。当時、小澤征爾さんが指揮者を務めていたトロント交響楽団のコンサートも、何度か仕事をしながら聴いた記憶があるんですよ。

また、高校生の夏休みに友人に誘われてカナダの国民軍に参加したことも貴重な体験でした。銃の清掃から始まってシャツのアイロンがけ、靴の磨き方、行進、ジープやトラックの運転など、すべての経験が目新しくて刺激的でしたね。その後の生活で役に立っている経験もありますし、その後紛争の仕事をする上で、実際に銃を扱ったときに「やっぱりこういう物は使用するべきじゃない」と強く思ったことが助けになったこともあり、若い頃の経験はその後の人生でどう役に立つかわからない、ということを実感しました。

世界への興味を目覚めさせたヨーロッパ留学

父親が科学者だったこともあって大学では物理を専攻したのですが、大学3年生のときに半年ほどオランダに留学した際、初めて「自分が日本人である」という意識に目覚めたんです。さまざまな人種が集まる北アメリカに住んでいると国籍をあまり意識する機会がないのですが、ヨーロッパでは「そこに住んでいる人と外国人である自分」を強烈に意識しましたね。その留学で国際関係に興味が出てきてもう少し長く留学したいと思い、大学院に入る前に半年ほどフランスに留学しました。その時はフランスの文化や語学に興味があったので、国際関係のコースに加え、フランス語をみっちりとやるために4ヶ月ほど発音の学校にも行きました。当時は将来のことはあまり考えていませんでしたが、国連に入ったときの最初の任地がフランス語圏のジュネーブだったこともあって、フランス語を身につけていたことは非常に役に立ちました。

フランスへの留学の際にヒッチハイクでヨーロッパ各国を旅したり、当時のソ連に旅行に行ったりしたことで、外国と関連のある仕事をしたいという思いがどんどん強くなってきたんです。大学では物理学が専攻でしたが、就職が難しいということや国際関係への興味を考えて大学院ではMBAを取り、国連競争試験を受けて無事合格することができました。銀行からも内定をもらっていたのですが、「お金を持っている人がもっとお金を儲けるための仕事がしたいのか、お金がない人がお金を得るための手助けをする仕事がしたいのか」と自問して、結局国連に行くことに決めたんです。

自然災害や数々の人災を担当した国連時代

Kazuhide Kuroda国連で最初に配属されたのはジュネーブの旧災害救援調整官事務所(現人道問題調整事務所: OCHA)という部署。自然災害後、現地に支援をうまく届けられるよう調整するのが主な仕事で、メキシコ大地震やアルメニア大地震などを担当しました。1980年〜90年代に入って人災が増え、紛争に関する支援が中心に変わってきた頃、同じく国連で働いていた妻がニューヨークに転勤になり、私もニューヨークに移りました。

その後、湾岸戦争でクウェートからヨルダンへと流れ込んだ避難民のケースや北朝鮮への人道支援を扱ったり、ルワンダ担当だった1994年にはルワンダ虐殺が起こり、「なぜこのようなことが起こるのを避けられなかったんだろう」と自分に問いかけずにいられないような、世界的な悲劇をいくつも目の当たりにしながら仕事をしてきました。

いつの間にか国連に入って16年が経ったある日、方向転換をしようとしている世界銀行が今までとは違ったタイプの職員を探しているということで、友人に声をかけてもらったのが入行のきっかけです。それまでの世銀は「紛争国では開発はできない」というスタンスで、情勢が危なくなったらすぐに職員を引き上げて後は国連やNGOなどにまかせる体制でした。しかし、1990年代のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争をきっかけに「国ごとの支援ではなく、テーマを取り上げてユニットを作った方がいいのではないか」という意見が出て、それまでのやり方を改めようとしていたようです。僕自身、既に国連にかなり長い間いたことや、世界銀行への興味もあって、いい機会だと思い世銀に移ることを決心しました。国連本部事務局で仕事をしていた妻と娘はニューヨークに残り、ワシントンDCに単身赴任し週末とんぼ返りの生活を始めたのは、1998年のことです。

世銀でのキャリアと仕事内容

世銀に入行してからはずっと紛争関連の仕事を担当しています。入行当初は社会開発局紛争予防復興ユニットに所属して、「ポストコンフリクト(紛争後)」の支援だけではなく紛争を予防することも重要」という考えから生まれた紛争予防を主に担当していました。初期の紛争予防は政治的な交渉が中心でしたが、実は開発の観点から支援できることは、例えば若者の雇用や天然資源の管理などたくさんあって、今では紛争予防支援における開発援助の役割はかなり大きなものになってきています。世銀の中でも組織改革が始まって、ポストコンフリクトの仕事から政策関連、組織的に世銀をどのように変えていくかといった仕事内容にどんどん変わっていきましたね。

Kazuhide Kuroda現在は国別担当ユニットに移ってスーダンとエチオピアを担当しています。スーダンは2005年まで20年以上も紛争があった国。2011年に住民投票が行われ、南部スーダンの分離独立が決定され7月に南スーダン共和国として新しい国が誕生しました。 しかし、まだ治安は落ち着かず、深刻な人道問題や開発課題が山積していて国際協力が不可欠な状況です。エチオピアは世銀の支援額がアフリカ第2位ということもあって多くの投資案件を抱え、またチャレンジも多い国。それぞれの国への支援を円滑に進めるために政策を作成したり、援助国や国連などのさまざまな組織間の調整を行ったりしています。思えば、入行後ずっと世銀の中での紛争と開発に関する中心業務を担当させてもらっていることについては、やりがいも感じますし、ありがたく思いますね。

仕事の醍醐味、そしてワークライフバランス

この仕事の醍醐味は、やはり出張で色々な国を実際に見ることができるということだと思います。カンボジア、アフガニスタン、東ティモール、モザンビークなど、さまざまな現地の状況をこの目で見て人々と触れ合えたことで、学んだもの、得たものがたくさんあります。たとえ言葉が通じなくても、気持ちが通じ合うことってあるんですよね。

国連も世銀も大きな組織なので、なかなか自分の思うように物事が進まない面があって、そういう面では「内部での身の処し方」というのが自分にとっては気を使う事柄のひとつです。気がつけば開発の仕事に携わって既に30年近くが過ぎようとしているのですが、自分のいる場所が居心地よくなり過ぎてしまわないように、常に新しいチャレンジを見つけるように意識しています。Kazuhide Kurodaそういう意味では、世銀は勉強することが尽きない大学院のような場所と言えるかもしれませんね。常に刺激をもらえるところなので、世銀での13年間はあっという間でした。

最近、世銀元総裁であるジェームズ・ウォルフェンソンと会う機会があったんです。そのとき彼が言っていたのが「仕事以外にもうひとつの人生を持つことは大事だ」ということ。彼自身チェロを弾いたり、投資家の一面を持っていたりと多才な人ですから、非常に説得力がある言葉でしたね。僕自身、仕事と同じぐらいに趣味も忙しいので、その言葉にとても共感しました。自然に触れるスポーツが好きで、登山やスキューバダイビング、スノーボードなどひと通りやっています。娘が高校生になるぐらいまでは補習校などのこともあって忙しかったのですが、大学に入って手が離れたのをきっかけにマラソンも始めて、2011年の2月には東京マラソンを完走することができました。「家庭を仕事よりも優先するべき時もある」と僕は思っていて、例えば自分たちの場合、妻が2年間東ティモールで仕事をしていた期間は、娘の世話のため、ニューヨークをベースに週に3日ほどワシントンDCで仕事をするといった生活を送っていました。大変な2年間でしたけれど、今ではこちらの希望に柔軟に対応してくれた職場に感謝しています。

開発の仕事をしたいと思っている方々へのメッセージ

Kazuhide Kuroda「開発の仕事をしたい」と思うのには、人それぞれ何かしらのきっかけがあると思うのですが、僕の場合は海外に初めて関心を持ったのは、まだ小学生ぐらいの時に見た東京オリンピックの閉会式だったのかもしれません。世界中の人がひとつの場所に集まっている光景に、意味のある「何か」を感じたんでしょうね。そこから始まって、高校生や大学生で考えた「海外を見てみたい」という思いが、そのまま原動力となって今に至るわけですから、皆さんにも時間を忘れて夢中になれる「何か」を見つけて欲しいと思います。自分が一番関心を持っていること何なのか、それがイコール「磨けば光るもの」であると思いますから。見つることができれば、あとは頑張ってそれを磨くだけです。

僕は自分が好きな2つのスポーツから大きなものを学んだと思っているんです。それは、スノーボードとウインドサーフィン。スノーボードは行きたい方向にまっすぐではなく、ジグザグに進みますよね。ウインドサーフィンも風を利用して進むので、自分の行きたい方向にまっすぐ進むことはできません。人生もこれと同じで、行きたい方向がなんとなくわかっていれば、まっすぐ進まなくても大して問題はない。自分で完璧にコントロールするなんてことは不可能に近いんですから、ジグザグに進んでいたって、ときには少しぐらい逸れてしまったって、最後に軌道修正することができればそれでいい。このぐらい大らかな気持ちを持って長期的に見ることが、人生には必要なんじゃないでしょうか。 "Journey is destination" 旅が目的地。毎日を大事に過ごしてください。皆さんのご健闘をお祈りしています。

世銀スタッフの横顔ホーム