Akiko Maeda

Akiko Maeda

プリンストン大学の理学部生化学科を卒業。その後、ハーバード大学で生化学および分子生物学修士、さらに中東研究で修士号も取得する。 UNDP (イエメン勤務)、ユニセフ(イエメン・カンボジア)、アジア開発銀行(マニラ)のフィールドでの職務経験を経て、ジョンズ・ホプキンズ大学にて医療経済を研究し、公衆衛生学博士を取得。世界銀行では1994年から中東・北アフリカ地域総局保健・栄養・人口先駆セクターにて勤務。低所得国から高所得国まで、さまざまな国の医療・保健システムの構築に関する助言、提言などをしてきた。現在は、同セクターのセクター担当マネージャーを務めている。趣味は乗馬。週末には愛馬と馬場馬術をするのが楽しみ。

第37回インタビュー 2011年8月9日

前田明子セクター担当マネージャー(注)

世界銀行 中東・北アフリカ地域総局 保健・栄養・人口セクター

鮮やかな赤いカーディガンでインタビューに現れた前田さん。迷いがなくきっぱりとした口調で言葉をつなぐその様子には、いくつもの組織で経験を積んできたキャリアの厚さが感じられる。「女の子はお嫁に行くのが当然という時代でした」と笑う彼女の今までの半生について語っていただいた。

様々な国で過ごした幼少時代

父親が外交官だったので、幼い頃から外国を転々としていました。カナダで産まれてシンガポールに移り、その後日本で幼稚園に通い始めて途中でサウジアラビアの幼稚園へ。小学校の低学年はまた日本に戻っていたんですが、日本の教育を受けたのはこの数年だけです。あとは、すべてインターナショナルスクールでした。小学3・4年生はカリブ海のドミニカ国、5年生から中1まではイランで過ごしました。時代も時代だったので、両親は中2で日本に戻るときに「女の子はお嫁さんになるんだから、お嬢さん学校へ」と考えていたようですが、既に環境や理系の学問に興味があった私はそんな両親の言葉に猛反発をして、日本でもインターナショナルスクールに入って高3まで過ごしました。

アメリカでの大学・大学院生活

そんな中でアメリカの大学に行きたいというのは、自分の中でごく自然な流れでしたね。母も姉もごく普通の主婦だったので、キャリアとしてのロールモデルはなかったのですが、母は政治家になりたいという夢を抱いていた人。戦争でそれどころではなくなってしまったけれど、外交官の父と結婚して父を支える中で、彼女なりに自己実現を果たしたんじゃないかと今は思います。そんな母親はいつも私のことを応援してくれて、「Girls be ambitious!(少女よ、大志を抱け)」とクラーク博士の言葉をアレンジしたオリジナルの言葉で励ましてくれました。父親は、娘を心配する気持ちも大きかったのだと思いますがもっと保守的で、最初は「大丈夫なのか?」という感じでしたけれど、私がプリンストン大学に合格してからは全面的に応援してくれるようになりましたね。

大学では生物化学を勉強していたのですが、79年にイラン革命が起こり、かつて住んでいた土地だったこともあって大きなショックを受けました。大学院に進む際にマサチューセッツ工科大学(MIT)とハーバード大学で悩んだのですが、MITは完全に理系だったこともあり、「もっと社会に関わる勉強もしたい」という気持ちがどこかにあったので、総合大学であるハーバード大学に進学しました。ちょうどその頃にリビアで爆発があって、中東に対する偏見を肌で感じたりとなんとなくもやもやしていた頃に、父が訪ねてきたんです。既に父は外交官を辞め、開発の仕事に関わっていました。自然と話題が中東問題になり、70歳の父が信念を持って途上国のために働いているのだから、まだ若い私が問題を抱えている国のために何かしなくてどうするんだ、という気持ちが湧いてきました。

その頃やっていた生物化学の研究は内容的にも地域的にも途上国のこととはかけ離れていたので、大学院3年目で博士課程を中断し、中東の経済についての修士課程のコースに変更しました。「開発関係の仕事をするなら、もっと世間のことを知らなければいけない」と国連でインターンをしているうちに、外務省のJPO派遣制度のことを知り、運良くUNDP(国連開発計画)に入ることができました。

国連・ユニセフなど様々な組織での職務経験

Akiko Maedaアラビア語とペルシャ語を勉強していたこともあって、アラブ諸国でチャレンジングなポストを、という自らの希望でUNDPで最初に就いたのは南イエメンのポスト。86年から90年まで3年半いましたが、共産圏の終わり頃という環境の中、色々な仕事のやりとりを学びました。開発では、その地域のルールやカルチャーを知らないと仕事にならないので、そういった事柄を体で学ぶことができたのも大きな収穫でしたね。ただ、UNDPでしていたのは、管理業務が主で、私はもっと実質的な業務にかかわりたいという希望がありました。ちょうどそのときに知り合いになったユニセフの方に「ユニセフの方があなたのやりたいことができるんじゃないか」と誘っていただいて、ユニセフに移ったんです。

ユニセフは予防接種や教育などに専門を絞っていたので、より自分のやりたいことに近づけたという実感はありました。ユニセフの中でイエメンからカンボジアへと移り、緊急援助活動の担当になりました。まだクメール・ルージュが健在だった89年頃です。これからカンボジアが選挙に入るという大変なときに腸チフスにかかって、6週間ほどホテルで死にそうになっていました。病院もないのでユニセフの医師に診察してもらっていたのですが、この時職員に対する組織のサポートについて、真剣に考えざるを得ませんでしたね。「このままじゃ体が持たない」と思い、マニラに立ち寄った際にアジア開発銀行の職員の方に誘って頂いてそこにお世話になることに決めました。まだ30代の始めぐらいでしたし、違う組織で様々な経験を積むのもいいんじゃないか、と思えたんです。

アジア開発銀行というのは、総裁も日本人で当時の大蔵省や財務省の方々が来ていて、まるで日本の組織のようでした。専門職の人たちが630人ほどいる中で、女性は20人ぐらいしかおらず、そのことが問題になっていましたので、私の最初の仕事は女性を採用することでした。「女性で途上国はきついですけど、大丈夫ですか?」なんて言われるのは日常茶飯事で、日本の組織の保守的さに驚きましたね。当時欧米の組織では途上国で女性がバリバリ働いているのが普通でしたから。結局ここで3年ほど働きましたが、日本の組織についてのいい勉強になりました。

博士号への再チャレンジ→世界銀行入行

Akiko Maeda結局7年間フィールドで仕事をしたわけですが、「もっと開発に関係する勉強をして仕事につなげたい」という気持ちが強まり、、世銀に距離的にも近いジョンズ・ホプキンズ大学の博士課程に進みました。UNDPにいたときに、系統立てて支援業務をやるならば世銀が一番貢献度が高いな、という感想を持っていて、前から世銀に興味は持っていたんです。ですから、最初から勉強しながら世銀とのコネクションを作ろうという思いはありましたね。社会に有益になるような学問ということで、医療経済を研究しながらネットワークを作っていきました。研究の内容は、医療施設の保険の使用状況や、費用対効果について。徐々に色々な仕事を頼まれ始めるころ、博士号を取ることができて世銀の正式なスタッフになりました。

今までの経験を生かしたいと、最初のポストは中東でした。医療経済政策の助言のため、医療保険の使用量や顧客満足度などのデータを集めて分析することが主な仕事。世銀に入って12年経つのですが、最初の6年は実際にプロジェクトを動かすタスクチームで、後の6年はマネージャーとして働いてきました。タスクチームリーダーからセクター担当マネージャーになって一番の違いは、課題が自分のスキルを上げることから、良質なスタッフの確保になったことでしょうか。いい人材をリクルートして、常にモチベーションを保ちつつ育てていく。セクター担当マネージャーの仕事は器を作ることで、実際に仕事をするのはスタッフたちですから。そういった意味では、彼らや彼女たちが仕事をしていい結果が出るのが、今の一番の喜びですね。

「自分のメンテナンス」が大事

Akiko Maeda小さい頃から動物が好きだったんですが、私の心の健康を保ってくれているのはやはり動物。現在は馬を飼っていて、週末に馬と散歩するのはかけがえのない時間ですね。生きていると辛いこともありますし、1人きりだったらとてもやっていけないと思います。そんなときに、動物や周りの人に支えられていると感じます。日本の家族ともこまめに電話しますし、周囲の友達と悩みを相談したり、体も心も健康を保つためには、メンテナンスが必要不可欠です。

子どものときに夢中だったのが『ファーブル昆虫記』や『シートン動物記』。ひとつひとつの話が印象的で、繰り返し読んでは感動して泣いていました。いずれも読んでいると、昆虫や動物の行動に向ける科学的な観察の目と同時に、深い愛情を感じるんですよね。私は開発もこれと共通する部分があると思っていて、「人に対する愛情を持つこと、同時に科学的であること」が何より大事なんじゃないかと考えています。どちらか一方だけではダメで、両方があって初めて成立するものです。

開発の仕事をしたいと思っている方々へのメッセージ

Akiko Maeda一番大切なのは、やはり自分を知ることだと思います。自分にとって何が大事なのかを明確にすること。勉強することはもちろん大事だけれど、どうやったらそれを長く続けられるのか。自分はどこまで頑張れるのかを知っておけば、時には人にアドバイスや助けを求めることもできます。挫折することもあると思いますが、そこで挫けてしまったり、意地になったりせず、大らかな優しい心を身につけてたくましく成長して欲しいですね。

日本は豊かな国でしたけど、今回の東日本大震災で大変な思いをしましたよね。今の苦しみを忘れずに、将来的に日本人として世界に貢献してもらいたいと思います。今までの世界の歴史を見たときにも、危機的状況のときというのは国として、個人として成長するチャンスでもあると思うんです。そういった意味でも、日本の若い人たちにこれからの活躍を期待しています。ぜひ頑張って、これからの国際社会に羽ばたいていってください。

(注)前田さんは2011年4月より首席保健専門官に肩書きが変わりました。

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